雨、雨、雨。思い出すのは、フィルムの装填。135、120、220、4×5、、、。
1EXにかける「瞬間」は、まさに「勝負」の分かれ目でもあった。そこにプロの世界があって「神技」だった。勝負には「流れ」があって、後手に回ると、永遠に「勝利」はない。雨の日は特に「差」が歴然とついた。経験の「差」と人間力の「差」が決定的に出た。人にわからなくても、自分には許せない「決定的瞬間」を逃した思いは残る。次にリカバリーなど「有り得ない」。
「今」が、すべて。妥協と言い訳は背負いたくない。
雨の風景は、スポーツフォトのような「セオリー」は無く。まったく読めないばかりか「激変」する「光景」に翻弄される。露光も難しい。ファインダーを覗くあいだには「生」の風景が、視界から失せる。その瞬間にも風景は違って行く。スチールは最高の瞬間をきりとり、VTRは「前後」の時間ものこさなければならない。まさに「究極」の闘いなのである。
一時とも「気」がぬけない。ただし、すべての状況に「余裕」を持ってないといけない。相反する「ふたつ」の要素。
伊勢。神々の森の雨の風景。
雨合羽の上から、雨の粒があたり、体の芯に届くのを感じる「ひととき」があって、瞬間「すべて」が、今居る「自然」に同化するときがくる。無になって、何も考えず。ただ、ひたすら「シャッター」を切ってゆく。アングルも自分が決めるのではない。流れのままにファインダーの中の光景を撮って行く。それは撮らされるがままに。自分の意志もあるけれど、自分の意志よりも「さきに」指がシャッターボタンを押している感じがある。
「人間」が自然界で認められるということは、存在が目立たなくなるということで。さらに季節の巡りは気温、水温、湿度、風向きで「行きつ戻りつ」しながら、食物連鎖の変化も読めなくてはならない。
自然と向き合うというコトは「行」であり「悟り」である。