辿り着いた。生命の不思議と存在の意味。撮影のエリアを伊勢志摩国立公園内に集中し、連動する部分は三重県、紀伊半島とつなげることにした。のんびり「リハビリ」がとんでもない展開になってきた(笑)。昨日のヒキガエルの話をもう、すこし。山の斜面はたっぷりと水を含み、谷筋が幾つもある。水がたまりやすい場所は落ち葉や泥や砂も堆積し、日当たりが良ければ「いきものたち」の熾烈な「食物連鎖」の回廊となる。産卵の場所を目指して、ヒキガエルの巡礼の歩はつづく。まっすぐにピンポイントで到着するモノ。彷徨居ながら、到着するモノとさまざまである。森林を渡る風に野鳥の囀る声にまぎれて、ヒキガエルの声は聞き取りにくい。
撮影には準備がいる。出会ってから、長い時間をかけて、野生に「許容」してもらうまで、一回のシャッター音や小生の動きで、警戒ラインを突破できなくなる。動物と対峙する時に見えてきたものがある。自分自身の「こころ」の置き場である。なにやら「行」に「さとり」に近い「こころ」のコントロールであるに違いない。まあ、そんなところだ。で、究極はやはり「無」であり「夢」である。
なぜ?この色なのか?いきものたちの見に纏う「色彩」「四季彩」には究極の「生」への条件が秘められている。これをひもとくように「写真」におさめてはいるが、限界に次ぐ、限界にぶち当たり続け、それが逆にモチベーションを高め、のめりこんでしまった(笑)。
左の斜面からの谷筋から現れたメスはやけに赤色で、土壌なのか水なのか食べ物なのか?よく、わからない。その不思議を考える、意味もなく、、、。
右、背後の斜面から現れたのは「登山?」してきたヒキガエル。行動パターンを今は記憶して、ただひたすら学習するのみ。
夜来の暴風雨も上がり、気温も急上昇で、快晴で風も無く。水量もほど良く増えて、春の日差しも届く場所で「産卵、受精」は続く。
ただし。
水場いっぱいに産み落とされた「玉子」の中で、生き残るのは「少数」。どこからとも現れた「いもり」がすでに数匹。息継ぎで水面を割る。
で、春から初夏で、その季節の「いきものたち」が「レンズ」の前に現れる。ホフク前進、後退?撮影ベストポジションで闘う日々は続くのである(笑)。